田村流の代々 

【以下、敬称略】

初 代

小唄は江戸末期に「清元お葉」が『散るはうき』を作曲したのが始まりといわれており、その弟子の「横山さき」により伝えられ、横山さきの弟子達が各流派を樹立し、その中の一人、「 田村てる」が大正9年に興したのが小唄田村流である。

「初世 田村てる」は姿かたちのいい人で、粋であるが上品な美人だったそうで、異常と思われるほど芸熱心で、端唄やうた沢を早間にして小唄にするなどをいち早く手がけ、稽古熱心だった事もあり、多くの門弟を育て、田村の地盤を大きなものにした。「裏みせて」などを作曲。

昭和9年、65歳で没する。

二代目

 二代目家元「初世 田村小てる」は初世田村てるの姪。夫は初代清元一寿郎で小唄も

「田村法一」の名で二代目家元と共に田村派を牽引するも、第二次世界大戦にて戦死。

昭和31年田村小てるから「二世 田村てる」を襲名、その後、亡夫の兄の清元寿國太夫「田村寿國」が、田村派の後見人となり、二代目家元中心の田村会を結成。

二代目家元はプロデュースの才能もあり、田村寿國企画にて数々の田村の小唄を発表。

昭和38年、明治座にての田村会で、泉鏡花作の新派狂言『婦系図』を松本亀松作詞による小唄でつづる舞踊劇として上演。作曲には先代今藤長十郎、杵屋正邦、四世清元梅吉、

内輪より田村寿國と二世清元一寿郎が加わり、作調は先代藤舎呂船、田村派師範連中の演奏にて、振付先々代藤間勘十郎、配役は歌舞伎界より主税役に中村富十郎、お蔦役に中村雀右衛門、小芳役に新派の市川翠扇、妙子役を舞踊家の花柳寿美の方々により上演発表。

同会では駒井義之作詞で、前述の作曲陣に今藤政太郎も加わり「おんな抄史」の題名で計8曲を振付四世花柳寿輔により三世花柳寿輔、吾妻春菊、朝丘雪路等の舞踊と共に上演発表。

その後昭和42年には国立劇場にての田村会でやはり新派狂言の『残菊物語』を発表、前述の作詞作曲陣に文楽の野沢松之輔も加わり、振付は先代花柳寿楽、配役は歌舞伎界より、菊之助役に尾上梅幸、お徳役を中村芝翫で上演発表等、大きな業績を数々残す。

昭和56年三代目家元を長女に譲り、自身は田村会会長として後見役となる。

平成18年、92歳で没する。                          

三代目

三代目家元は、初世清元一寿郎(田村法一)と二世田村てるの長女で昭和34年「二世 田村小てる」を襲名。

母二代目の片腕として流儀を支え、『小てるの会』等自身の研鑽の会を催す他、長唄名を「今藤美栄子」、清元名を「清元延一寿」、又、「東明青舟」、「宮薗千一寿」の名もあり、さまざまなジャンルで研鑽を積む。

昭和56年、三代目家元を継承、「田村彌枝」と名を改め、中村芝翫、中村勘九郎時代の中村勘三郎等の小唄振り出演も交え、全国の田村派一門あげての三代目家元披露演奏会を国立劇場にて開催。以後、定期的に演奏会を開催。

舞台、放送、録音、また各地に稽古場を置き、折り目正しい上品な芸風で活躍する。

ビクター、テイチクより数々の小唄を収録。

公益社団法人小唄連盟常任理事、相談役を歴任する。               

平成25年7月1日、76歳で逝去。同年10月「三世田村てる」を追贈。

四代目

幼少より日本舞踊(名取名・七々扇菊千子)や三味線を習い、清元は昭和49年清元流家元より「清元益代」の名を、小唄は三代目家元並びに母の田村てる若に師事し、昭和60年「田村わか枝」となり、昭和61年に師範となる。

NHK邦楽技能者育成会22期卒業、杵屋正邦にも師事する等現代邦楽も学ぶ。

平成11年、「二世 清元紫葉」を二世 清元梅寿太夫と共に襲名。

奏風楽【松原奏風(清元梅吉)創主の新邦楽】の楽員として「長谷川春風」の名でも活動。

作曲活動もしており、平成15年と平成24年の芸術祭舞踊部門優秀賞受賞作品の作曲も手がける。平成24年、『山姥夕月浮世語』の作曲で第一回中島勝祐創作賞を受賞。

平成22年より東京芸術大学音楽部邦楽科(清元)の非常勤講師を勤める。

平成25年10月、田村派四代目家元「四世 田村てる」を襲名。

平成26年10月、国立劇場にて、三世田村てる追善、四世田村てる襲名披露を小唄連盟より会長を始め幹部、春日会会長、邦楽界より今藤政太郎等の客演、坂東三津五郎等の小唄振りも交え、全国の田村派一門をあげて開催。

公益社団法人日本小唄連盟理事、清元節保存会会員、清元協会理事、清元美成会共催。

                                                                        

以 上